[ 『季刊 武術』掲載記事インデックス 2001年冬号 ]
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【第四部】中国武術精品 戴氏六合心意拳 第五代伝人 王映海老師に聞く

インタビューに答える王映海老師。

───まずは、先生の経歴についてお話しください。

王映海(以下、王)  新暦(西暦)1925年に山西祁県で生まれ育った。家は農業を営んでいた。私も農業に従事してきた。武術は15歳のとき、戴魁師が私の家の近くに移ってきたときから始めた。心意拳という。戴師は有名で、近所でも名が知れていた。私に限らず、若い男は先を争うように師に教えを求めた。しかし、非常に厳格な教え方だったので、ほとんどの者がついていけなかった。10年間を師の元に通い、教えを受けた。師が亡くなった後は自分と師兄たちで修練した。師兄たちも死んでしまった。戴家の直系は今では私だけになってしまった。弟子を取ることはあまりしなかった。保守が基本だった。時代が流れ、中国も変わった。私は解放政策を支持し、心意を教えるようになった。教えた者は少なくないが、簡単にできるようになることはない。しかし、数人の弟子が支えている。台湾・日本・シンガポールなど外国からも教えを請う者が来た。あなたの雑誌に紹介されたことも知っている。海を隔てた外国で心意が愛好されるようになるとは以前なら考えられないことだ。私の話が多くの日本人にとって有益ならば、できる限り協力する。

───武術を始めたきっかけは何ですか。

  いくつかの理由がある。私が心意を始めた頃の中国は、とても平和といえるような状況ではなかった。戦争という人間と人間が殺し合うことを躊躇わない時代だ。生活する事自体が非常に困難で、厳しいものだった。強くなければ生きていけない。武術に興味を持つのは当然のことだろう。戦うことだけが武術の意義ではない。いろいろな局面で、物事の最前を判断し、全力で立ち向かう。仕事であっても生活のことであっても、心意の戦術は役に立つ。軍人が闊歩するなか、一般人は恐れおののき生きていくしかない。農民として畑を守る。男として家族を守る。そのためには、精神的な強さがないといけない。そのための修行を求めていたともいえる。弱い者が強くなることが術の異名だ。偶然、戴魁師が私の住む集落に逐電してきた。戴家は武術の家柄であり、とても有名だった。戴師は当時、山西を支配していた軍閥に見出され、武術の教授を依頼されていた。しかし、戴師は頑なに拒んだ。身を案じて隠れるように流れてきたのだ。生活に窮していた戴師を助けながら心意を学ぶことが許された。祁県には「戴家が拳を練ると聞くが、戴家の拳を見ることはない」という意味の言葉がある。非常に幸運であった。若いこともあって真剣に心意に取り組むことができた。

───師である戴魁公についてお話しいただけますか。

  師は非常に厳格だった。知識もあり、人格者であった。さらに家伝である心意拳を操ることができる武術家だった。戴一族は祁県では名家だった。非常に力を持っていた。祁県城には今もそのことが証拠として残っている。「戴家の働きで祁県が栄えた」と。しかし、時代の流れで没落していった。師は家を飛び出して、一族の家訓を破った。さっきも言ったように祁県には「戴家が拳を練ると聞くが、戴家の拳を見ることはない」という言い伝えがある。それほど保守的だった。それを破ったのだ。内蒙古や祁県城内で教えた。私が教えを受ける前の話だ。そこで師の名を知らしめる事件が起こった。六十二という武術家を打ち殺してしまったのだ。このことが噂になって一般にも広がった。戴氏心意の凄さを現したわけだ。軍閥もそのことを重視して、武術教練に招聘しようとしたのだ。


戴魁公・戴一族最後の伝人である。これ以降、外伝されることになった。

───詳しくお話ししていただけますか。

  戴一族が武術を教えることは非常に少ないことだ。現在の内蒙古での出来事だ。師の元に一人の男が教えを受けに来た。気が合った師は彼に刀を教えた。一手だけだが。彼は六十二の生徒だった。師は絶対に口外してはならないと言った。先生である六十二にもあかしてはならないと釘を刺した。しかし、彼は六十二と練習しているときに、師から教えられた技を六十二に対して使ってしまった。手を叩いてしまい、六十二は出血した。そして驚いて尋ねた。「いまの技はなんだ?」彼はとぼけて本当のことを言わなかった。「戴の者がこの辺りに来ている。そいつから習ったのだろう」六十二はかんかんに怒った。そして、師が滞在している家に来て面会を希望したのだ。師は六十二との面会を拒否した。「戴魁はここにはいません」と家人に言わせて門を開けることさえもしなかった。しかし、六十二は手を替え品を替え何度も何度も師に会おうとした。贈り物を携え、尊敬の言葉を口にして。それでも師は門を開けさせず、身を潜めようとした。六十二はあきらめる気もなく通い続けた。師は家人への迷惑を気にして、ついに門を開けさせた。表面的には礼を尽くす六十二は言うまでもなく、師を害することしか考えていなかった。言葉のやりとりの中で、師の出方をうかがっていた。椅子に座ってキセルをふかす師は丁重に話しかける。「私は武術を少しは知っているが、今となっては何もない」と。六十二は「ぜひとも私に教えていただきたい」と、うやうやしく懇願した。話はまとまらず、時間が過ぎた。六十二は意を決して師に向かっていった。前置きもなく突然だ。師は表情を変えることなく椅子に座ったままだ。六十二は猛然と師に襲いかかった。師は六十二の攻撃を受けるように見えた。が、よろめいたのは六十二のほうだった。蒼白い顔になって、しゃがみこんでしまった。師のキセルは地面に落ちなかった。

───どういう技を使ったのですか。

  「斗手」という。点穴だ。詳しくは教えられないが、一発の攻撃で相手はもう何もできなくなった。師は家人を呼び六十二を介抱させた。「薬を飲みなさい。医者を呼びましょう」と言っても六十二は拒否した。師が「しばらくここで休息しては」と言っても、六十二は立ち去ろうとした。しかし、まともに歩くことができなかった。師は力車を呼んで六十二を家まで送らせた。師は六十二に見舞いを送り気遣った。しかし、数日後に六十二は亡くなった。その話が間もなく評判となったのだ。師はかくしてその地を離れた。この話は中国でも詳しく発表していない。害された人や親族のことを想うと、ここでしていい話かどうか。

───そのころの心意の練習についてお話しください。

  私の住む村の外れに小さな祠があった。師はそこで生活した。誰かの家に身を寄せることもない。我々が食料や身の回りの物をもっていく。そこで心意を授かるのだ。農村で長いパオを着ているのは師だけだった。とても風変わりで、不思議な人に思われていた。師はそのような場所にも多くの書物を持ち込みいろいろな研究をしていた。多くの知識や経験を備えていた。近所の農民は何かあると相談に訪れた。心意の技法はとても単純に見える。若い男たちも師の評判を聞いて集まってくるのだが、突いたり蹴ったりから始まらない心意は長続きしなかった。初心者には解るはずもない。ただ、師が言うことを実行するしかないのだ。それ以外にどうやって心意を身につけることができるだろうか。単純なことをやるのは、そのまま簡単にできるとはいえない。複雑でないから逆にごまかしもできない。内功を重視するとは、そういうことになる。見た目だけをうまくしようとしても意味がない。形に現れないことを修練するのだ。師の教えは厳しく、難しいことを要求する。頭で理解しただけでは、これもまた意味のないことだ。数年を経て、師との関係もうまくいくようになった。武術を修得していくには、素質や運動能力や記憶力なども必要だろう。しかし、それ以上に重要なものが、師との人間関係にある。師を尊敬し誠意を示し、認めてもらわないと、私もここまで来ることはできなかっただろう。自分の努力で心意を得たのではない。師の指導の賜物というしかない。師はひっそりと死んだ。最期を看取った我々は手厚く葬り、小さな墓を建立した。戴氏伝人の最期だ。そこから心意は戴一族から離れることになった。祁県には戴氏の末裔は今もいる。しかし、心意を直接に受け継いだ者はいない。

───それでは具体的に心意の技術について説明していただけますか。

  (一門の方々と相談すること、しばし)この後、場所を変えて話をしよう。私独りでは説明できないこともある。

───分かりました。よろしくお願いします。

予想外に口が滑らかだった王映海老師だったが、技術のことに話が及ぶと表情が変わったように思えた。北西氏とひそひそ話。それまでは口をはさまなかった両李先生がなにやら王老師にフォローでもしているか。どうもいい感触ではないようだ。順調に進んでいたインタビューが中断したようで、なんだか不安だ。まずは近くの競技場で写真撮影。王老師、仲連氏を中心に激写。うまく撮れるか、失敗は許されない。通訳を通して要望を伝える。各技法の撮影が始まったのだが、困った事態が発生した。心意には「定式」という概念がない! ようなのだ。各動作ごとに止まっていただくようにお願いし、そう通訳してもらうのだが、止まらない。北西氏曰く「止まらないのではなく、止まれない」とか。技術的には、心意は動きが途切れることを許さない。ゆっくりと動いていても、である。仲連氏にいたっては疾風のごとくである。一つの技法をお願いしても、次から次へと違う技が出てくる。武術に対する考え方になにかの距離があるように感じた。たしかに、心意の人たちは写真に撮られることに慣れていないかもしれない。しかし、よくよく後から考えてみれば、撮影用の動作など本来はあるはずがない。

ホテルに戻り、再びインタビュー開始。

───心意の特徴を教えていただけますか。

  まずは「虚実剛柔」ということがいえる。簡単に言うと、戦術と内功に特色がある。内功は身法の訓練を指す。外見は猿の如く、内は丹田を練る。

ここで、丹田功の講習が始まった。心意倶楽部の2名は王老師の手直しを受けつつ静に動き始めた。王老師が手本を示す。足をそろえ、直立から手を膝の上で開きながら、ゆっくりと身体全体を縮める。確かに猿のようにも見える。そして、身体全体が伸びて、元の姿勢になっていく。手は丹田を抱えるようにする。ゆっくりと何回か伸び縮みすると、こんどは一瞬にして縮み一瞬にして伸びる。「ハッ」という奇妙な声というか音というか、を発する。これって、「雷声」?

───他流派の「站椿」といわれる練功と違いはありますか。

  他の門派のことは分からないので、なんとも言えない。ただし、「動功」を練るのが、心意の目的とするところだ。意識も呼吸も動きの中で作用させるものだからだ。

───この練功はどのくらいの期間やればいいのでしょうか。

  一生かかる。私は今でも練っている。もちろん、一般的な修練という意味でのことだ。教える場合は、修練者のレベルによって決まる。

───徒手と武器との関連性はどうでしょうか。

  心意が槍からきているとの伝説については、ここで証明しろといわれても不可能だ。我々が生まれる遥か昔のことをどうやって検証できるのか。遺されている拳譜には記載がある。師よりも伝えられている。そのことは重視する。重要なのは現存している技法についてだ。心意の徒手は槍の操法と矛盾しない。通常は棍を用いる。槍と棍は相兼ねる。手足の活動は、武器に通じる。当然といえば当然だ。そして、特長である。

王仲連(以下、仲連) 徒手拳法においては「手は刀、足は軍馬」という。

  徒手と武器では異なる要領もある。まずは、目を配る位置が変わる。武器によっても一様ではない。長さや働きが違うからだ。たとえば、槍と刀では持ち方も違う。実際にやってみれば分かることだ。共通点と相違点を認識できることは重要だ。

王映海老師は、おもむろに脇にある杖(棍)を取り出し、相手を立たせた。まずは棍を使って動く。激しく打ち込むというより、流れるように制するといった感じだ。つづいて、杖を傍らに置き、徒手で同じ動きを演じる。まったく同じ動作だが、当然ながら詰める距離や当てる部位が異なる。写真を参照のこと。

───では、徒手の訓練において、重要な点を教えていただけますか。

  簡単に言うことはできない。全ての要素が重要だからだ。第一には身法・歩法を徹底して練習する。習うときは言われ続けるし、教えるときは言い続ける。形だけたくさん憶えてもだめだ。そんなものは心意ではない。私の弟子で、以前に他の人から心意を習っていた者がいた。彼は「これもできる。あれも習った。それも知っている」という風だった。しかし、私の弟子となってから一からやり直すことになった。教え方も習い方も問題だったし、それよりなにより身法も歩法も全然いいとはいえなかったからだ。彼が私のところで教えを受けないままであれば、何十年やったところで何にもならないだろう。厳しいかもしれないが、事実だ。努力して報われなければ悲しいことだが、武術においては少なくない。

仲連 多くの技を持てば、それだけ幅が広がるかもしれないが、功の深さは別の次元だ。深めることこそが重要だ。功が深まれば、幅を広げることがそのまま、その人の強さになる。基礎ができれば、後は早い。

───発勁・威力を養成する方法はありますか。

  教えることはできない。なぜなら、勁は動作を練ることによって身に付くものだからだ。内家とは、内側から作っていくものだ。外側を鍛えることから始めない。心意の発勁は「心」と「意」が合うことが重要で、それが意義だ。

仲連 剛柔でいえば、剛が発勁だ。

───中国武術では、筋力トレーニングをしないと言われたりしますが、心意ではどうでしょうか。

  いま言った通りだ。まず筋力をつけることからは始めない。確かに筋力はあったほうがいい。鍛え方の問題だ。心意をやるならば心意の威力が養成できないといけない。力まず勁を出すことだ。それには心意のやり方で鍛える以外にはない。まずは力まないことを覚えなければならない。それは簡単なようで難しい。

───実戦において心意を使う際には、どのように用いるのですか。

  棍がいい。持ち運びも容易だし、戦いやすい。長くない刀も使いやすい。

───いや、そうではなくて、徒手に関する話ですが。

  先の話と矛盾するわけがない。つまり徒手であっても武器であっても共通することが重要な部分になる、ということだ。まずは歩法が重要になる。蹴りを含む歩法がないと難しい。軍馬が敵陣を駆け抜けるように走る。体の小さい者が大きな敵に対抗するのは簡単ではない。歩法を用いる。眼も重要である。眼の配り方だ。どこを狙うのか、虎豹のように頭を用いる。やみくもに攻撃してはならない。巧者は正確に打つことができる。意識については、中心と重心の問題がある。

───化勁について教えてください。

  今の話にも関わる。打つときは剛で、交えるときは柔となる。陰陽ということだ。一体のものだが、両極のどちらかしか現せない。しかし、瞬間的に使い分けることは可能だ。中途半端であればだめだ。

───訓練法について教えてください。

 「磨」という。二人で技を繰り出し、手を交えることを練習する。しかし、単なる手のやりとりではない。


「磨手」

王老師が立ち上がり、北西氏を招き、太極拳の推手のような動きを二人で始めた。これが心意と太極拳を結びつける例の練習法か。本誌バックナンバーによると、太極拳が伝えられる以前に心意ではすでにこの練習法があり、太極拳の発生に影響を与えたとされる。一種独特な感じの動きだが、相手を吹っ飛ばすのではない。王老師が相手の手を封じると、いったん停止する。一つ一つの動きで相手のサイドに入ろうとしているのが分かる。相手を中心において周りを回るように見える動きと、ずかずかと中心に入っていく場合もある。自由に動き回り、約束事はあまりないようだ。ぶつかり合いではないが、王老師はがんがん前へ出る。表面的に見れば、激しさは感じられない。しかし、端からみるほど簡単ではないだろう。スピードガンには表示されない速さも、解らないながらも感じる。

───招法についてお話ください。

  日本人はそういうことに興味があるか。重要だが、簡単に教えられるものではない。私は中国人の弟子にもほとんど教えない。

別項であるように、実は招法が多く紹介されている。北西氏の指摘でカテゴリーとしては認識できたが、その意味や意義、それがどのように重要なのか、それは理解の外にある。正直なところ。

───心意拳は多くの門派に大きな影響を与えたと言われていますが、王老師はどのようにお考えですか。師匠からはどのように聞いていますか。

  心意を純粋に守ることが重要で、他の門派については詳しくない。知っていることもあるが、別にここで話すまでもないだろう。歴史的なこともあまり興味がない。遠い過去の話は計り知れない。戴師はいくつかの門派について話していたこともあったが。

───形意拳は心意拳から派生したものでしょうか。両者の違いについて教えてください。

  山西省の太谷県(祁県の隣)でおこなわれているのが形意だ。場所や名称が異なるだけではない。動きの質が違う。それは基礎、出発点から異なっている、ということだ。詳細はかけ離れている。我々は山西省形意拳協会に属している。そういう意味では形意の一派と思われても仕方がない。そのほうが楽な部分もある。同じものである、と言っておけば秘密が守れる。最近、認識が変わってきた。戴氏心意拳協会を編成するとの話もある。

───太極拳と心意との関係については、どうでしょうか。

  どちらも内家拳と呼ばれている。外功を重んじないのであれば、共通しているのだろう。

───河南省の陳家溝(太極拳の発祥地)では、心意を研究していて、その証左として心意の古い拳譜が発見されたと言われていますが。

  私は聞いたことがない。あなたがたの方が専門だろう。見ることができれば言うこともあるかもしれないが。

───気功と心意の関係については。

  心意のすばらしさは、健康に貢献することにある。争いの手段としての認識では不十分だ。北京に北西が調査に行った。胡耀貞(※北京陳式名家・馮志強氏の師)の娘さんに会って、資料もいただいた。見てみたが、我々の心意と同じかどうかは、それだけでは判らない。戴家が北京で心意を教えたことは確認できないのだが。

───ありがとうございました。



# xinyi : Apr 20, 2005