| [ 『季刊 武術』掲載記事インデックス 1996年夏号 ] |
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戴氏心意拳(ここでは戴氏第四代戴魁の嫡伝である第五代王映海への系統)のように武術として全伝を備えるということは、門派の技術がそろっていることと同時に、武術家を養成するシステム(体系)として、完成度が高いことを指す。そのシステムは師弟関係によって作動し、術の実用に重要な技術的エッセンス【武術の本質】が授けられる。よく言われる『よい師匠』に就くべき理由もそこにあるし、弟子を見れば師匠の実力も判る。また、勇で名を馳せても、システマチックに技術を伝承できないと、伝統にはならない。
教材や限定した情報しか持たない人を通じての学習ではおのずと限界がある。情熱をもって中国武術の世界に入ってくる有志の諸兄は、あらゆる困難を排して妥協せず自己が判断する全伝を有する最高の師匠に教えを乞い、技を受け継いで磨くべきである。武術史のなかでエピソードとして語られる苦労話が他人事と考えるべきではない。自身のさまざまな困難に戦いを挑む姿勢に、武術家伝統の気概がある。
戴氏心意拳の内容について触れる前に、練功における留意点として、心意拳では『かたち』ではなく、実用する『うごき』を習得することに意識が置かれなければならない。武術は言うまでもなく人間の身体の動作の修練であるのだが、流派を問わず、往々にして『動作のかたち』の次元で滞っている愛好者・研究者が多い。単式拳にしても套路にしても正しく稽古を重ねれば熟練することは間違いないのだが、自覚症状がない「術が使えない」症候群に陥りやすい。伝統套路が使えるか使えないか的議論があるのも、散手競技で中国武術らしさがないというのも、原因は同じ次元に根ざしている。意識的にも技術的にも欠落しているもの、すなわち【武術の本質】がある。『かたち』ではなく『うごき』という考え方から、【武術の本質】を導きだすことができる。ここで述べる【武術の本質】は個々のパーツとして認識すれば、多くの門派で当然のように練習されているものと重複し、珍しくもありがたくもないものに見えるかもしれない。ただし、実用を目的として実践している諸兄には、あるいは違った色で見える。
《把式》
把式は各歩形(たとえば、馬歩・弓歩・虚歩)のことではなく、勁力を発する歩形の変化(歩法という流派もある)・動作(勁道)を指す。勁力の要請・門派の風格に直結する基本である。多くの門派で採用されている長拳的な練習や入門套路は把式を練るための段階であるといえる。ただし、主体となる拳種の勁道が伝授されなかったり、あるいは習得できないままでは、異なる拳種をこなしても把式は練られない。実際に、各流派のなかでも正確な把式の伝授・訓練がかならずしもおこなわれていない。即ち、【武術の本質】である。
発勁は中国武術の精華と考えられているが、『うごき』の中で活きてこなければ意味がない。よく紹介されている、棒立ちの相手に触れた状態から発勁を加えフッ飛ばすというのは、あくまでもデモンストレーション的次元のものである。
戴氏心意では、把式は身法・歩法の鍛錬を指す。内功を重視するのは、端的に言えば、把式の鍛錬に必要不可欠な要素であるということである。具体的には言及しないが、心意の『六合』は各技法と把式を結びつける秘訣である。
《招法》
中国武術各門派の核心技法は、招法(実質は招法で門派によって名称は異なる場合もあり、内家と呼ばれる流派でも備わっている。着法ともいう。)である。招法の完成度が門派・流派・伝承者の価値を決定するといっても過言ではない。秘伝として扱われている流派・伝承者は已然として多いことからも【武術の本質】である。
招法は実際問題、武術の重要な部分であるにもかかわらず、認識が曖昧であったり理解されていないかもしれない。招法は、敵との空間を詰めて接触(攻撃)する技法である。単純に言えば構えた敵に対して「先の先」/動き始めた敵の「後の先」をとる技である。「起こり」からの「攻撃」への一連の動きとも言い換えられる。先師の武勇伝として、初手の一打で相手を倒したり牽制の一撃で死に至らしめるのは、間違いなく完成された招法が運用されたはずである。伝わっている劇的な表現を鵜呑みにしただけでは、実体を捉えきれない。
中国武術の、単練・対練套路を中心とした学習の落とし穴は招法の欠落である。構成された各技法を分解して「用法」という次元で理解しても、個々の技法を多く集めても実用に届かないのは、その門派の招法・戦術が習得されていないからである。套路の意義は流派・門派によって異なり、その位置づけが体系的になされていないと、無用の長物になりかねない。招法自体は門派の戦術の基本・核心部分ではあるが、特別に複雑であったり、難解な動きとは限らない。
心意の招法については、言及することはできない。しかし、明確に備わっている。
《歩法》
『うごき』という観点からしても、歩法は流派の重要な位置【武術の本質】を占める。武術の実用で、前提として相手は人間であるのだから、必ず動く。その際に技が出にくい(自分が動けない)ことや繰り出す技に威力がないのは、歩法がないことが要因の一つである。
攻撃にせよ防御にせよ、自分と敵の位置・距離はめまぐるしく絶えず変化する。歩法の運用がなければ、闘いを進めることは難しい。敵との空間を詰めて間合いを取り、敵の死角(いり身など)に入りながら、招法を繰り出さなければならない。基本となる歩法とは、必ずしも特殊なステップワークではなく、把式・勁道をそのまま活用できる歩み足である。技法(手技・蹴り)と歩法が分けて練習されることは、意味を成さず、実用には使えない。
(格闘技・散手競技のように限定された場面で正面きっての体力スタミナ勝負であれば話は別次元として)体格差が著しい場合や敵が複数になったり凶器が使用されることなど、自分の不利を克服するためには、歩法を最大限に活用しなければならない。
雑誌等に発表される「相手が突いてきたら」的な多くの用法レベルの説明・解説では相手の動きがないか、きわめて限られていて、距離・間合い・位置取りなどの要素が欠落している。各論にも歩法の運用が(おそらくは意図的に)言及されていなかったり触れられていない。
門派によって用いる歩法は異なるが、それは勁道・把式の違いによる部分もある。たとえば、戴氏心意は「寒鶏歩」を基本歩法とするが、河南の心意六合とは若干の違いがある。
《間合い》
客観的には距離であるが、主観的に敵との空間を見切ることで区別がある。単に遠い/近いで計れない。術の実用では最も曖昧であるが、重要な部分【武術の本質】である。
問題は間合いそのものよりも、間合いの取り方である。正当に伝えられ、受け継いでいる武術家は希有であると思う。「眼法」という表現を使う流派もある。
戴氏心意拳では、基本的に自分の肩で敵との間合いを見切る。ただし、用いる技法の変化と、歩法の項でも触れたように敵との距離・位置が変化することによって、間合いの取り方も変化する。重要な秘伝であり、外部には流れることはない。師弟関係を通して正確に伝授されないと、理解も実用もできない。
《その他》
その他というのは、優先順位で後位ということではなく、スペース的な問題で割愛するということである。出勢・拳種・攻撃の箇所・勁力の養成・死角への入り方など、少なくない。
また、各項目に関しても深く掘り下げることができていない。情報として認識しても、それだけでは大した意味がない。重要なのは、それぞれを習得する訓練法の伝授と修練である。
筆者の見識だけではあまりにも視野が狭い。多くの士にも、可能が部分での公開を望む。
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